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古代測量技術研究倶楽部

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東西測定

古代の東西方向測定の手法の一つ

一度は実践したい手法ですが、、、、かなり正確に東西が決定できるので、平城京や平安京の定礎にはこの太陽高度を利用した手法が使われたに違いない。

定礎の手法

古代城柵定礎の手法

陰の古代測量士たち 世襲と口伝の狭間で為せる業師のこと

      副題:山立てのポール持ちマタギと測量屋の山伏または山臥

Google earthで測量図を描いた。

公園の一角に野球場がある。そこに町内運動会用に200mトラックを作る。

つまり厳密解を必要としない素人にとって、三角測量を行うには

丁度良いアイテムだということだ。

こここで言う三角測量とは

3:4:5:の比率をもった三角形を利用した直角だしのことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代の日本国土図を眺めてみる。まったくの未開発な場所を画面上で見つけることはかなり困難だ。

特にGoogle earthで空中散歩しても、すぐに道路を発見し一軒家を見てしまう。

よしんば道や家が無かったとしても、人の気配のする牧草地や林業の施業地がある。それ程までに我が国土はいたる所が開発されている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あらゆるところに人が居住することにより、国土が形成され保全されることは明白な事実であるし、そのことが為政者をして国家をわがものにすることとなる。

それは、古代からの生業としての行為であり

そんな中にあって、ここ国後島の東端は何とか人の気配がない地形を醸し出している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この山で囲まれた谷沿いに住処(掘っ立て小屋、城柵、環状列石などなど)を造ろうとしたとき、川の流れや陽の当たり方、風雨を遮る方向などの立地条件を考慮しながらポイントを決めることになるが、点は無数にあるために人々の(住民であったり縄文人であったり)意見は決まらない。どなたか心も身体も強い人間がいて、ここじゃ!と決める方法もあるが後々の災いがこの地を襲った時、その強い人間もまた、周囲の妬み恨みを買いそれ見たことかと責め苦に合うだろうことは、人間社会の習わしとして数万年前も今も変わらない事だと思われるが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

でなければ漁師や釣り人が使う山立ての方法がある。それを海上に使うのではなく陸上で用いるのである。つまり、客観的な手法で城柵を定礎すればよい。責任は全員が負うことになる。

例えば、定礎の記はこうなろう。

 

 

 

 

 

 

未定稿

検証!朝島山

検証!朝島山と古代城柵の日の出

1:検証!城柵と方角

盛岡市の南東に、朝島山という標高600m程度の山がある

どうということのない山だが、古代からの歴史を語る山だという。

蝦夷征伐とは、征服者から語られる物語だが、制圧されるほうはたまったものではない。坂上田村麻呂は802年(延暦21年)、胆沢城を築いた。『日本紀略』には、同年の4月15日の報告として、大墓公阿弖利爲(アテルイ)と盤具公母礼(モレ)が500余人を率いて降伏したことが記されている。

 

多賀城が築かれ、胆沢城、志波城、徳丹城と征服地の拠点城柵は時の情勢に応じて変遷した。

 志波城(しわじょう)は、岩手県盛岡市の西の郊外、現在の中太田・下太田にまたがる地域にあった古代城柵である。現在は盛岡市によって「志波城古代公園」として整備され、外郭南門、築地塀、政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元されている。一時は鎮守府将軍が在する鎮守府が置かれていた可能性がある。国の史跡に指定されている。

 

志波城は、雫石川氾濫による水害のため北辺部分を失っており、後に南へ下った現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田の地に徳丹城が造営されることでその機能を移転し、約10年で役割を終えた。現在でも、志波城の北辺部には、水害の影響で形成されたと思われる段差が残る。

胆沢城(いさわじょう)は、陸奥国胆沢郡胆沢(現在の岩手県奥州市)にあった平安時代の城柵である。国の史跡に指定されている。

坂上田村麻呂が802年(延暦21年)に築き、1083年(永保3年)の後三年の役の頃まで約150年にわたり鎮守府として機能した。

新征服地の城としては、翌年これより北に志波城が築かれた。志波城の方が規模が大きいので、当初はさらなる征討のため志波城を主要拠点にするつもりだったと推測されている。しかしまもなく征討は中止され、志波城はたびたびの水害のせいで812年(弘仁3年)頃に小さな徳丹城に移転した。

しかし志波城と比べて城郭の規模は縮小されており、築地も北側にしかない。さらに弘仁6年(815年)には配置されていた鎮兵500人が廃止され、正規軍が配置されなくなる。しかし徳丹城自体は9世紀半ばまで使用されていた形跡があり、律令国家に協力的な俘囚の軍が配置されていたと考えられている。

志波城の移転・徳丹城の造営・徳丹城の廃止の一連の流れは、この時期の律令国家の強硬政策の転換として、熊谷公男や鈴木拓也らが取り上げている。これによって後方にある胆沢城が最重要視されるようになった。

9世紀初めに鎮守府が国府がある多賀城から胆沢城に移転した。その正確な年は不明だが、早ければ建設と同時の802年、遅ければいったん志波城におかれたとみて812年となる。『日本後紀』の808年(大同3年)7月4日条から、この時既に鎮守府が国府と離れた地にあったことが知れるが、それが志波か胆沢かまではわからない。移転後の胆沢城は陸奥国北部、今の岩手県あたりを統治する軍事・行政拠点となった。

どの城柵でも、征服者の威圧、偉大さを表すために大きな城門が造られ、俘囚饗応が行われた。威圧と懐柔が融合策として常態化したようだ。

その志波城、徳丹城は盛岡市と矢巾町に位置し、約10kmの近い距離にある。

朝島山はその両方の城柵を西に見て約60度の角度をなして位置する。

小生もよくその山を自宅から眺めたり、朝の散歩に日の出を拝んだりする。

愚作ながら絵にも描く。

ある山行の冊子をよんでいたら、この朝島山は 冬至には志波城から見ると、

その山頂から朝日が昇り、夏至は徳丹城から見るとその山頂から朝日が昇るとあった。

夏至は概ね6月20日頃、冬至は概ね12月20日頃で昼の長さが最長か最短ということだ。古代から地球の傾きはほぼ同値なので、古代人も同じように朝日を拝んでいたようだ。また方角は占星学上、最重要テーマであったのだろうからそのような位置に城柵を仕立てるのが吉兆を推し量るため重要だったのかも知らない。

 

1)夏至&冬至 昼の時間が極大、極小

2)春分の日&秋分の日 昼夜の長さがほぼ等しい

2:朝島山の日の出の検証!

太陽・月の位置計算には、井上圭典・鈴木邦裕共著「天体位置略算式の解説」(海文堂株式会社、1991年4月初版発行)を用いるのが分りやすい。その計算式をもとに素人でもわかりやすく調べられる計算ソフトも公開されている。

1)題名のないソフトだが公開されている一つが以下のUniform Resource Locator(ユニフォームリソースロケータ、URL)または統一資源位置指定子(とういつしげんいちしていし)だ。

 

http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10508/Srss2.html

公開されている北海道大学情報基盤センターのものだ。

日の出 日の入り 月の出 月の入り 時刻と方位の計算 クリックして、観測地を決める

 

2)こんなURLのソフトもあるが、この日の出日の入りマップは位置が若干ずれるようだ。

http://hinode.pics/

 

従って

1)のURLを利用してみると、まさに一致したから伝承は正しいと、つい唸ってしまった。

例えば

 月日を12月20日とし、志波城の位置をクリックして特定すると、

緯度39.686256   経度141.106287 とクリック位置が特定され、日の出 日の入り 月の出 月の入り 時刻と方位が計算される。

また月日を6月20日とし、徳丹城の位置をクリック特定すれば、

緯度39.607068   経度141.171673とクリック位置が特定され、日の出 日の入り 月の出 月の入り 時刻と方位が計算される。

ぴたりと符合する日の出と朝島山の山頂だ。目出度し芽出度しである

夏至、冬至の日にちはその年によって数日のずれがある。

昔、自然がもっと身近にあった時代、日の出や日没の太陽を拝む習慣があった。

太陽は農耕民族にとって、豊作を保証してくれる神でもあったのだ。

 

日の出や日の入りを眺めたり、夜空に輝く星、遠くの高い山などを見ることで、脳がリラックスして活性化することが大脳生理学的にもわかっている。

だから、遠い風景や流れる雲などを見上げることが、脳の老化防止にも大変重要になってくるようだ。

現代人こそ

インターネットやケータイ使用などによる慢性的疲労から、脳細胞や視神経を開放してやるためにも、日の出や夕焼け空、海などを眺めることは有効なのだろう。

朝日を全身に浴びてから1日をスタートさせるような生活パターン者は、頭の回転をよくする脳内物質が盛んに分泌され、脳の機能も向上することが判明している。

その脳内物質こそハピネス・ホルモンと呼ばれるセロトニンで、太陽の朝の光を浴びることによって増えることがわかっている。

セロトニンは免疫力を高めたり、物忘れ防止にも役立つ物質だ。

 

Fig-1:ある日の朝島山からの日の出

徳丹城から見る朝島山からの日の出

志波城から見る朝島山からの日の出

3:朝島山の鉱山 検証!

ではなぜ、朝島山が城柵建設上で重要な目印になったのか。このような課題に係る古文書があるかどうかは未調査だが想定すれば、大ケ生三山のひとつである朝島山は『鉱石採掘跡』の看板!があるから金か銅が採掘されたようだ。大ケ生は大萱生であり、もとは中世の大萱生館があり一帯を大萱生氏が支配していた。その時代から金を採掘していたようだ。

明治期になり元山という場所で廃坑が発見され、採掘が再開された経緯がある。

元をただせば平安期の藤原三代時代からも金を産出していたスポットといっても過言ではないだろう。

 

さらには坂上田村麻呂時代から何らかの鉱物が採掘されていてもおかしくはないだろう。

Fig-2:朝島山の採掘跡

朝島山は古代から鉱物の宝庫だったのかもしれない。これが検証できればさらに論考が広がると思われるどうだろう。

古代、金属は支配上、垂涎のマテリアルであり鉱物を制する者は全てを手中に出来た。

志波城を建設するにあたり、なるべく北上して雫石川付近にその拠点を設定した。冬至を選択して朝島山を拝めるようにしたが、度重なる氾濫で撤退南下することになるが、徳丹城の位置はその夏至を選定して位置を決定した。夏至は昼が長いので夜が長い志波城の位置より更に吉兆なりとばかりに天道暦博士がご宣託したのだろう。となればかなり辻褄が合うというものだが、さて歴史の神様はどういうだろう。

 

 

4:参考  ■黄道座標■

地球から見ると太陽は1年かかって背景の星空に対して天球上を1周しているように見えます。太陽は、この間に12の星座(実際には13星座になるのですが…)を通過していきます。星占いで有名な12の星座たちです。この太陽の通り道を黄道と呼び、黄道面を基準とした座標系を黄道座標といいます(下図)。

太陽系の各惑星の軌道平面はほぼ一致していますから、地球から見た惑星も太陽と同じように、黄道に沿って動いているように見えます。ですから、主として惑星や月など太陽系天体の軌道や位置をあらわす際に使われる座標系です(右図)。

黄道座標の経度は「黄経(こうけい:λ)」、緯度は「黄緯(こうい:β)」と呼ばれています。黄経は赤緯と同じく春分点を基点(0゚)として東回りに360゚までの数値であらわされます。黄緯は黄道を基点(0゚)とし、南(-)北(+)にそれぞれ90゚までの数値であらわされます。黄道北極は+90゚(りゅう座の方向)、黄道南極は-90゚(かじき座の方向)となります。

座標の原点を太陽中心でとったものを日心黄道座標、地球中心でとったものを地心黄道座標といいます。また、黄道座標も赤道座標のように基点である春分点の移動によって変化していきます。なお、ステラナビゲータでは地心黄道座標に基づいた視黄経・視黄緯を用いて表示しています。

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