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七里四方のこと

探索のきっかけ

徳丹城跡の春祭りだ。

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千葉家曲屋のウラが―ワンダーだ。
後ろは壁で下がれず、斜めにして入ったiPhone。

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秋には志波城祭りが開催される。
祭りが目的で行ったのではない。
7里四方を沈思黙考、頭の体操。
志波城の撤収がやむを得ず、この徳丹城に新規に南下したと古代史では比定している。
だが、朝廷の進軍方法としては7里四方の原則から
概ね15km毎に前進基地を造営し、地域の新鮮で旨いものを喰いながら勢力を拡大する、と云ふのが小生の見解なのです。

約30㎞を直径とし、半径15kmは4時間で歩けるし戻って8時間、一日の労働基準法だ。

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つまり、花巻辺りの基地から矢巾の徳丹城に移動し志波城に前進したが、阿弖流為たちに仕掛けられて雫石川の洪水地に築いたためその前に築いた徳丹城に撤退を余儀なくされたのではないかと云う推察だ。阿弖流為は死して一矢を報いた。
火のない所に煙は立たぬが、証拠も無いのに騒ぎ立て悪魔の証明を迫る様なもので、専門家が聞いたら開いた口が塞がらないだろう...

では、北上市の未発見の場所は何処だろうか?

それは新平遺跡だろうと推察する。古代の駅舎のようだ。

​多賀城まで、いや多賀城から15km毎に駅舎が設置されそれが城柵や官衙遺跡となっていると思われ、侵攻のポイントだったのだろう。

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