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徳丹城と雫石川

探索のきっかけの一つ

徳丹城と雫石川の関連

徳丹城のこと 雫石川との関連において考えた

トコタン川   ◆ト・コタン=沼・村「床潭」〈厚岸〉(A/3)

Wikipedia
城名は、元来「トクタン」ではなく「トコタン」と呼ばれていたが、後に「徳丹」の漢字が当てられることによって「トクタン」として定着したと見られる。史跡の所在地である「徳田」も、この「徳丹」と同義であろう。 「トコタン」の語はアイヌ語に由来すると言う説があり、アイヌ語では「元の村」、「滅んだ村」の意味になる。------ここまで

駅名の由来[床丹駅]
当駅の所在地附近の川の名より。川の名は、アイヌ語の「ト・コタン」(沼・村)に由来する[2]。サロマ湖畔にあるために付けられた[2]。別説として「トゥ・コタン」(滅んだ村)など、由来には諸説ある。

名寄市徳田は湿地帯のようだ。風連別川、名寄川、天塩川に挟まれた三角州のような地勢を呈している。
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92096-0071+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%90%8D%E5%AF%84%E5%B8%82%E5%BE%B3%E7%94%B0/@44.3312876,142.4513883,15z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5f0d95d3e9664db7:0xeb608a0e1fe5a0e1!8m2!3d44.3407673!4d142.4514223?hl=ja---------------------------------------------------------

従って徳丹城が位置する徳田地域は湿地の沼地帯と考える。古代雫石川、および南昌連山の毒ヶ森山から現在の煙山ダムを経て矢巾の又兵エ新田を流下する岩崎川から、この徳田までを北上川との合流点としたら、胆沢城の定礎された地形とも相似するのだ。
矢巾町に位置する徳丹城は志波城の後継として築かれた。先行する官衙が気になる。何に先行していたのかということから。
とくたん、とこたんという地名からこの場所は沼地の村と解釈すれば、古代雫石川がこの辺りを河口として日高見(北上)川に合流していてその利便性から村落が成立していて、その合流点に最初の城柵が築かれたと解釈。
この城柵(官衙)は志波城に先んじて定礎され、その後奥羽街道との通交確保のためや、前線を北上させ蝦夷に対処するために志波城が大々的に築かれる。こう想定すると従来の解釈とは異なるのである。
この頃は雫石川の流心が著しく変貌した時期で、志波城建設のころはその北側に川の流心が移動していた。 と想定した。

徳丹城(矢巾町歴史民俗資料館)
http://www.town.yahaba.iwate.jp/siryoukann/09%20tokutan(frame).htm
矢巾町歴史民俗資料館
- Yahaba town museumof History and Folklore-
〒028-3603
岩手県紫波郡矢巾町
  大字西徳田第3地割188-2 TEL:019-697-370  FAX:019-697-3704

(追記)

秋田県の内陸中央部に位置する払田柵跡は、文献に記録がなく詳細が不明であること から、「払田」という地名をもとに名付けられた。古代、城柵を設置する場所は北面の蝦夷と対峙するために、河川を前にして陣を張ることが多いようだ。志波城、胆沢城しかり、推察では徳丹城官衙しかり、とすれば北上川を右に視て和賀川を北に対峙する現在の北上市の南に大和政権の城柵があってもおかしくはないだろうが、未だ定まらず。

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