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津軽外ヶ浜(十三湊)、関山中尊寺、白河の関の定礎について

探索のきっかけの一つ

測量隊は寡黙でかつ記録を文字で残さない

「吾妻鏡」文治五年(1189)九月小廿七甲申

二品、安部の頼時(本名頼良なり)の衣河の遺跡を歴覧し給う。云々・・

「・・西 は白河関を界い、十余日の行程たり。東は外浜に拠るか、また十余日。その中央に当 たり遙かに関門を開き、名を衣関と曰う。宛かも函谷の如し。・・」

 

現福島白河関(北緯≒37度)と現青森外ケ浜たぶん十三湊か(北緯41度)との中間点に関(関所)を建設した。と公文書に記してある。

地元の郷土史家によると、中尊寺の月見坂中腹に位置する弁慶堂が、正に北緯39度00分00秒だという。

Google-earthでは、関山(地理院地図では山名無し)の頂上が39° 0'2.86"Nであるから殆ど北緯39度である。

二品頼朝は滅ぼした奥州藤原一族の痕跡を観て回ったのではなく、それより200年ほど以前の藤原の先祖安倍氏の痕跡を訪ねて廻った。(理由は省略)

 

白河の関の北に関山がある。

関山は、白河市街地南東の標高619mの山。山頂には天平2年(730)に行基により開基されたのと伝承をもつ満願寺が建つ(37° 4'41.08"N)。白河の関は37° 2'50.13"N。正確には南下して今の栃木県境に37° 0'00"Nの無名の山頂(誤差7m)がみえる。

 

白河の関は、鼠ヶ関・勿来関とともに奥州三関の一つに数えられる関所である。都から陸奥国に通じる東山道の要衝に設けられた関門としている。

白河の関が設置されたのは、承和2年(835)12月3日の太政官符(『類従三代格』)に、「白河・菊多両剗」について、俘囚の出入りと官納物資の通行取締りを長門国の関に準じてすべしとの記述がある。これには「旧記ヲ検スルニ剗(せき)ヲ置キテ以来、今ニ四百余歳」とあり、この当時、関の設置年代は5世紀前半頃と認識されていたようである。

これより先、延暦18年(799)12月10日の太政官符(『河海抄』)に「白河・菊多剗守六十人」の記述がみられる。

10世紀に入り、律令国家の崩壊とともに、官関の機能は失われ、「白河の関」は歌枕として都人の憧景の地へと変化する。

寛政12年(1800)に白河藩主松平定信が考証の結果、空堀・土塁が残る現在地が白河の関であると断定して「古関蹟」の碑をこの地に建てた。

 

つまり、大和朝廷と蝦夷がにらみ合う境界線ということだ。

何故北辺は外ケ浜(たぶん十三湊)か。

十三湊は安倍氏発祥の地なのだろう。(藤原氏は安倍氏から女を娶っている親類縁者)

安倍氏はナガスネヒコ、安日王の系統とも云われるが、日本海沿いに遠征した阿倍比羅夫と関係があるのかも知れない。いづれにしても遠い昔、大和朝廷と争ったかあるいは遠征の先頭に立たされ最終的には津軽に土着した中央の役人の顔があると思料す。

安日彦が流されたのが津軽(外ヶ浜)で、突如現れた平安時代後期の安倍氏の本拠は現在の岩手県中央部、そして中世以降活躍した安東氏は津軽十三湊地方と考えるとそれぞれ別の一族のような印象を受けるが、土着・融合・離反・諦念・妥協・打算・怨念という殆ど常温核融合ともいうべき現象を長い時間繰り返し今日に至っているような気がする。

 

古代人の測量技術

彼ら古代人は容易に緯度経度の測定をした。その手法は図表を参照してください。

ここでいう古代人とは山伏やマタギの先祖と想定している。彼らは遠い昔、三角関数や六分儀の原型を携えてバビロニアやエジプト方面から移住してきたと夢想中だ(笑)。

 

七里(28km)四方の手法を清衡は用いた。自分が居住するポイントつまり定礎した場所が中心であり、そこから四方に縄張りをつくる。その範囲で収穫された食べ物が一番身体に良いとも云われている。ただ人々は常に中心に住んでいるわけではない。四方の端に住む人にとっては、前述の中心は辺になるから、連綿と続く平面となることを清衡は理解していたのかどうか。

いずれにせよ、

110里四方約440㎞がエミシの領地であるとして清衡は結界を張る。

中心が平泉であれば、北の辺は十三湊外ヶ浜だ。つまり220kmの距離。さすれば朝廷側の最先端は半径220㎞の南端である緯度、つまり今の白河付近にあたる。そこが白河の関所だ。白河に関山がある。緯度37度ではないが測量基準点の山頂だと。

白河の関も緯度37度ではない。正確には更に南下して今の栃木県境に緯度37度の山頂がみえる。まあその辺はいいだろう、最初は北緯41度と39度を設定したのだから。概ね北緯39度の白河の関は平泉が円の中心点になるためには、偶然ではあるが最も都合よく合致したからだ。このような余裕はあって当然だろう息が詰まるから。

 

笠卒塔婆のこと

平泉町・中尊寺の金色堂ほど、善美を尽くした建物を知らない。

 戦乱をくぐり、運命を切り開いて奥羽に平和をもたらした奥州藤原氏初代・清衡は、大事業を次々と成し遂げた。

 白河の関(福島県白河市)から外ケ浜(青森県津軽半島の主に陸奥湾沿い)まで、およそ500キロを超す街道一町(約109メートル)ごとに、道標ともいえる笠卒塔婆を建て、在地の首領として、初めて長路の安全を確保した。

 街道の中央に建立したのが中尊寺。そして小さく貴い、宝石のようなお堂・金色堂を、天治元(1124)年に創建した。と、一般的な解説解釈ではこうなるが、最終的に中尊寺を建立したのでは距離の測定が不可能になるか、偶然の産物になってしまう。

あくまでも最初は大きな線形を描いておいて、北端に外ヶ浜と中心としたい関山中尊寺の距離測定の結果から半径を決めて、南端である白河の関が必然であるかのように決定した。

それが証拠に、白河の関と北緯37度山頂の距離は約5kmもずれている。

まず、測点間の直線距離を求め、曲がり真っすぐ?な街道1町(109m)ごとに図上測量して絵図面を起し、現地にプロットする手法を取ったのであろう。

 

地球の円周距離は約40000㎞だから赤道から北極地点までは10000km。それを90で割ると111㎞だから1度がその距離となる。

古代の測量技術者集団は、縄文時代から結成され日本国土を測量しまくっていたと仮定し、その集団は山伏やマタギの先祖系であり、まほろば国理工学部日置一族が統率していた。

北日本で顕著にみられる環状列石や古代の城柵は、山岳山頂を三角点にして定礎された己の立ち位置や寄る辺となる証しであり、再現可能な座標値をもっていなければならなかった。

これらは突飛な説だが、測量技術が発達していないと理解不能な古代の建造物や道路が在ることも事実なのです。

古代天体観測器機(地上用携帯六分儀)

天測航法(、celestial navigation、astronavigation)または天文航法)とは、陸地の見えない外洋で天体を観測することで船舶航空機の位置を特定する航海術である。数千年に亘って徐々に発達してきた。目に見える天体(太陽惑星恒星)と水平線(視地平)の角度(仰角、天測航法では「高度角」と呼ぶ)を計測するのが基本である。太陽と水平線から太陽の高度角を計測するのが最も一般的である。熟練した航海士はそれに加えて月や惑星や航海年鑑に座標が出ている57個の恒星を使う。

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