
志波城と雫石川と鹿妻穴堰のこと
探索のきっかけの一つ
雫石川下流域の河道変遷と志波城設置根拠の想定
佐嶋与四右衛門氏は岩手史学研究第52号別冊「北上川の蛇行と雫石川の影響」(S44発行)で雫石川第三期河道は田沢湖線を越えて北に位置し東進していて、現在の河道はそれより南下しているとしています。
さらにこの図でいう第二期河道が方八丁(志波城)北側を侵食しているが、もとは志波城を侵食しないように河道が形成されていて、洪水の堆砂等により南下して築地塀が破壊されたとしている。ただし大きな破壊は900年代なので、文室綿麻呂(ふんやの わたまろ)が,志波城が河のそばでしばしば洪水の被害を受けること,そのため新しい城柵に機能移転すること(徳丹城造営移転),その後兵士を減らすこと,について上奏し,許可を受けた記録は810年代であるから北側の築地は機能していたが、徐々に南下する河道に苦慮していたことを伺わせる。
(佐嶋図)
XL
また、津嶋知弘氏は河道を4本想定しているが、これも志波城が半分削り取られている図である。この図では、志波城が成立した時は城の南に黄緑色の河道が形成されていたが、その後水色の河道が方八丁を削りとったかのようにも想定される。
これは朝廷側が最初から背水の陣を敷いている形だ。しかも、被害を受けたのが当然のような図にどうも合点が行かない。
(津嶋図)
XL
そこで両者の図を複合して以下の河道図を想定した。
(6本の河道変遷図)
志波城築地塀は4角ラインで表し、河道の変遷順を①から⑥でプロットした。⑥は現在の姿であるが、佐嶋与四右衛門氏の第三期河道は⑥よりも更に⑤のように北側を流れていて、現盛岡駅の北側の木伏付近で北上川とぶつかり、大通り、お城の側面で中津川と合流し、南下していた。つまり南部藩が現開運橋方向に開削する以前の流れであり、大沢川原などは雫石川の氾濫による大量の土砂堆積の結果だという。つまりそれ以前は盛岡付近の北上川の流れは屈曲していなく、南部藩は雫石川河口が南に位置していたときのように開削しただけだという。
河道の変化は縄文期は①、弥生期は②、奈良平安期③、城柵建造期に変化し④、と想定します。
河川を境に攻防ラインが引かれることは古来からままあることですから、ピンクラインを境に蝦夷と朝廷が対峙する図式は容易に描けます。逆を返せば、河川を背にして背水の陣は敷くことは滅多にないということです。
XL
この河道は単純に北進するだけではなく、堆砂状況により南進することもあったとすれば、古来、北進していた河道を知っていた阿奴志己たちもよもやと思い、この位置を選定することに協力したと想定します。
もっとも始め蝦夷たちは、惨殺された阿弖流為の遺言により水害を蒙り破壊させることを承知で、この地を選定させたとも穿ったのですが、そこまでは戦略的でもないかと。
最初から河川の支流でもあっても築地塀内に引き込むとすれば、水門遺構があるはずではないでしょうか。それとも北側は築地が無かったとか。敵陣方向を開けっ広げにすることは論外でしょう。
また、いかに中央から派遣された優秀な技術集団といえども、地の利を知る者の意見を採用することが得策。蝦夷は協力者であり、被征服者であり、且つ又、川の向こうには未だにまつろわぬ鬼神どもがたむろしていたのです。
疑心暗鬼は甲乙双方でしょうね。
多賀の国守が胆沢公阿奴志己の要請書をもって、朝廷に伺いをたてたところ、その返事が面白い。
そんな嘆願は毎度のことだ。だまされるな。いつも帰服と称して利益を求めるだけなのだ。とこれらの出来事は、心からの帰服ではなく様々な駆け引きがあったことを伺わせるのです。
阿奴志己は元々胆沢の長であったようだ。朝廷方との戦乱のなかで、伊治(栗原)の族長や阿弖流為たち交戦派と意見の違いがあり、実利をとることが平和への道だと悟る。結果、彼は志波方面に押し出される形になったようです。
短期間に河道を変えるような洪水の元凶は、城柵用材木や4,000人も駐屯した兵士の住居、暖をとる薪類の切り出しには河川上流の山の恵みが必要です。たぶん七ツ森が妥当な仕事場でしょうか。切り出した木材は現在の御所ダムあたりに逆落としで流下させることができます。
とくに生森山は地理院の三等三角点が設置されている見通しのよい山頂です。
七つの山を丸裸にしたとして、その流域面積から裸地状態の流出係数(f)値を求め、洪水量を計算することはできます。その水量がどのように河川断面を変えたのかを立証するには更に多くのデータが必要でしょう。
この生森山と岩姫山を結んだライン上に志波城のセンターラインが合致します。偶然も様々重なるとゲシュタルトの法則もびっくりです。
意図的な仕業としか思えません。
関連別題
平城京や平安京に観るように正確に東西南北を測定できるテクノクラートが、チームを組んで設計施工した胆沢、徳丹の先行官衙、更には払田柵の第Ⅰ期城柵の約2度の傾き、そして志波城の約6度の傾きには謎があります。
歴史に名をのこしていない、陰の謎の測量部隊が見え隠れします。

